公益財団法人 本間美術館は、「公益」の精神を今に伝え、近世の古美術から現代美術、別荘「清遠閣」の緻密な木造建築の美、「鶴舞園」、さらには北前船の残した湊町酒田の歴史まで楽しめる芸術・自然・歴史の融合した別天地。

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Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館

コラム

公益財団法人 本間美術館 [山形県 酒田市] > コラム > 2018年 > 8月 > 1日

展覧会「西郷隆盛と志士たち」でみる幕末明治①

学芸員:阿部 誠司

 

◇戊辰戦争終結後の庄内

 

慶応4年(1868/明治元年)926日、庄内藩が官軍参謀の黒田清隆に降伏を宣言し、
東北の戊辰戦争(東北戦争)は終結しました。

当時、会津藩など他藩は、戦火と厳罰により悲惨な状態となっていましたが、
庄内藩には城の明け渡しや兵器弾薬の没収程度の寛大な処置となります。

藩主・酒井家には転封が命ぜられましたが、藩内で阻止運動が起こり、
本間家6代・光美を含む大庄屋や村役人など全領民が結託し、農民の嘆願運動として政府に直訴。
その結果、献金を条件に酒井家の庄内復帰が許されました。

 

 

◇西郷隆盛との交友

 

 《西郷隆盛肖像》佐藤均 ※印刷・旧鐙屋蔵

 

明治2年(1869)、庄内藩中老の菅実秀が東京の黒田清隆に戦後処置について礼を述べに行くと、
全ては西郷隆盛の指示であったことを知り大変な感銘を受けました。

これを受け酒井忠篤は、明治3年(1870)8月に西郷のもとへ使者を送り、
同年10月には、忠篤自らも約70名の旧藩士を連れて西郷を訪ね、
3か月間滞在し親交を深めながら教えを乞うています。

庄内の人々と西郷隆盛と交流は、明治10年(1877)の西南戦争まで続きました。
西郷の教えや指導の影響は大きく、松ヶ岡の開墾事業など庄内の近代化の礎となります。
交友の中で、西郷は多くの書を庄内の人々に渡しており、
これらは西郷の教えや生き方を表すものとして、大切に受け継がれています。

また、酒井忠篤や弟の忠宝は、西郷の勧めでドイツへ留学。
西郷は二人に政府での活躍を期待していたようですが、留学中に西郷が亡くなってしまいした。
忠篤と忠宝は中央政府には参加せず、庄内で産業振興に尽力することになります。

 《二大字「敬天」》酒井忠篤 ※個人蔵

 

 

◇庄内の人々が訪ねた、西郷隆盛の住居

 

 《南洲竹邨邸図》石川静正

 

明治8年(1875、旧藩士の石川静正は菅実秀(らと共に、西郷の住む鹿児島の武村(を訪ねました。
武村は、明治2年(1869)
に西郷が政府を辞職してから移り住んだ場所で、
約千百坪の広大な敷地内に平屋の母屋と長屋が建ち、菜園や相撲の土俵もあったと言います。

《南洲竹邨邸図》は、石川静正が西郷を訪ねた時の記録や記憶をもとに描いた作品です。
家に帰ろういう人物は西郷でしょうか。門では愛犬が主人の帰りを待っているようです。
雄大な桜島を望む、のどかな景勝地だったようですね。
西郷は、政府高官として多額の給金がありましたが、隠棲した鹿児島では一切贅沢な暮らしはせず、
学校を創設したり、新しい時代を生きる若い士族の教育に資産を使いました。

 

本図の右上には、西郷が庄内へ贈った書にある七言絶句を賛として添えています。

 我家松籟洗塵緑(我が家の松籟、塵緑を洗う)

 満耳清風身欲仙(満耳の清風、身、仙ならんと欲す)

 謬作京華名利客(謬って京華、名利の客と作り)

 斯声不聴己三年(斯の声聴かざること己に三年)

 

また、石川静正は、西郷隆盛と直に面会した人物として唯一、肖像画を描いています。
現在私たちが目にする西郷さんは、全て静正の描いた肖像画がもとになっていると言っても過言ではありません。
本展で紹介している西郷隆盛の肖像画も、佐藤均という黒田清輝の弟子が写したものです。
※展示したものは印刷で、旧鐙屋所蔵です。
 庄内の旧家では西郷隆盛の肖像画の印刷物を所有し、飾る家があります。

 

2018.08.01