公益財団法人 本間美術館は、「公益」の精神を今に伝え、近世の古美術から現代美術、別荘「清遠閣」の緻密な木造建築の美、「鶴舞園」、さらには北前船の残した湊町酒田の歴史まで楽しめる芸術・自然・歴史の融合した別天地。

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Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館

コラム

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特別公開「本間氏別荘庭園写景古図」(酒田市立光丘文庫蔵)について

学芸員:阿部 誠司

現在、清遠閣では「開館70周年記念展 本間美術館と歴史物語」を開催中です。

その中で、鶴舞園を描いたとされる唯一の古い絵図、
≪本間氏別荘庭園写景古図≫(酒田市立光丘文庫蔵)を期間限定で特別公開しています。

 


≪本間氏別荘庭園写景古図≫ 作者不詳 江戸時代後期(酒田市立光丘文庫蔵)
※2017年5月17日まで公開

本図は、本間家のもとで事務職をしていた中西利吉という人物が所有していたもので、
後に孫の利徳によって
表装されました。光丘神社へ奉献し、光丘文庫の所蔵となり今日に伝わっています。

右下の利徳の賛では、本間氏別荘庭園が築造されて間もない頃を描いたのではないかと推測していますが、
現在の庭園の様子とはずいぶん違って見えます。
築造当時はこのような景観だったのか、
または築造前の構想図なのか定かではありませんが、大変興味深い資料です。

 中西利徳の賛

 

【読み下し】

本間氏別荘庭園写景圖奉献記

昨秋畏くも 摂政宮殿下 山形秋田宮城の三県に行啓あらせ給ふや 山形県酒田なる本間氏の別荘に 親しく鶴駕を駐めさせ 御宿りあらせ給ひける

其の庭園の風光如何に 大御心にかなはせ給ひけむ/殿下にはいたく愛で興ぜさせ給ひて 御親ら写真機を大御手にせさせ給ひて 玉歩を移させ給ひきとなん洩れ承る

本年の御歌会始の御歌に 最上川の御詠あらせ給ふ/如何に御印象深くましまししかは 拝察し奉るだに畏しとも畏しや/これ実に本間氏の至大なる光栄なるのみならず 荘内否 山形県の風土に赫々たる光輝を添へ 荘内の野の広く 最上の川の長く 後代を照らし県民をして 感激忠誠の念勃々として更に湧きたたしめたり

抑も此の庭園や 世の多くの富豪の娯楽の為めに造れるとは全く類を異にし 窮民を救恤且つ労働の神聖なるを知らしめんが為め 凶年に造らしめしなりと云ふ/積善の家による余慶ありと 本間氏の此の光栄に浴するそもそも故ありと謂ふべし

本図は 余が祖父利吉嘱せられて本間氏の事務を執れる際に得しもの/図中松の小きを見れば築造後程経ぬ頃のものなるべし/片片たる一小図に過きずと雖も 実に尊き心ちのせられて こたび之を表装し 謹み畏みて光丘神社に奉献し 永く光丘文庫に蔵せしむと云爾

  仙台の青葉繁れる宿にて  大正十五年六月一日  従七位 中西利徳 謹みてしるす

 

大正14年に東宮殿下(昭和天皇)が鶴舞園にお越しになった際の様子が詳しく書かれています。
自らカメラを持って庭園を歩かれたんですね。皇室のカメラ愛好の話は有名です。
この時、東宮殿下が最上川を詠った歌が、現在の山形県歌になっています。

利徳が賛を書いた大正15年とは、東宮殿下がお泊りになった清遠閣内部と庭園「鶴舞園」が一般にお披露目された年です。これをきっかけに、本図は表装され、酒田へ還ってきたのかもしれませんね。

 

 

鶴舞園に関する史料はほとんど見つかっておらず、作庭者すら正確には分かっていません。
この作品は、築造当時かそれ以前に描かれたものと考えられ大変貴重です。

よく見ると、今の庭園の姿とは大きく異なる所が多く存在します。
その謎はこれから研究されるところですが、とても面白い作品です。
この機会にぜひご覧ください。

 

2017.04.27