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Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館

コラム

公益財団法人 本間美術館 [山形県 酒田市] > コラム > 2017年

若き激情の画家 小野幸吉 #1

学芸員:阿部 誠司

酒田を代表する表現者、画家・小野幸吉。
20歳10ヶ月で夭折するまでに約50点の作品を描きました。
そのどれもが今もまだ生々しく、観る者の心を激しく揺さぶります。

開催中の企画展「若き激情の画家 小野幸吉」では40点の作品を展示しています。
このコラムでは、展示作品を紹介しながら小野幸吉についてお話します。

 

 

生まれながらの芸術家肌。そして病との闘い…

小野幸吉は、明治42年(1909)3月10日、酒田町染谷小路(現・酒田市街地)の酒屋に生まれました。(兄2人、姉1人、妹2人の6人兄妹)

6歳の頃に腎臓病を患って以来病弱で、突然多量の鼻血を流すことがよくありました。
幼少期からよく絵を描いていた幸吉でしたが、この鼻血が生活に支障をきたすこともあったようです。

 

 

学生時代

大正10年(1921)12歳の時に琢成第二小学校を卒業し、酒田中学校(現・県立酒田東高等学校)に入学します。

 ≪風景≫ 大正12年(1923)14歳 個人蔵

しかし、幸吉は絵を描くことに夢中になり、授業へも参加せず絵ばかり描いていました。
学校ではある種「特別な存在」として見られており、この頃には早熟した芸術家としての思想、言動が目立っていたようです。親しい友人は「小野と会っているときは全神経がピリピリした」と回想しています。

そんな小野を常に守っていたのが担任の井口先生だったと言います。
小野は亡くなる前まで、何度も井口先生を訪ね親しくしていました。

 

   
 ≪静物≫ 大正13年(1924)15歳       ≪H農場≫ 大正13年(1924)15歳
 ※2点とも県立酒田東高等学校蔵

      
≪妙法寺山門≫ 大正13年(1924)15歳 個人蔵   

 

 

退学

大正14年(1925)3月、画家になることへの想いを強くした幸吉は、今の生活が自分にとって無益なものだと悟り学校を辞めます。

この頃の絵は理解に苦しむ難解なものが多く、細かくうごめく様なタッチで、暗い藍色を好んで用いています。
美大を目指す学生からは「小野は恐ろしい神経を持っている」「小野は不気味なほど勉強している」と言われていたようで、学校を辞め毎日写生ばかりしている幸吉の熱と迫力を怖れていたようです。

 ≪並木道≫ 大正14年(1925)16歳 個人蔵

また、この時期が最も読書をした時期とも言われています。
ゴッホ、ゴーギャン、マティスなどの伝記を読み漁り、武者小路の小説を好んでいたようです。
作家では、村山槐多の「槐多の歌へる」を愛し、関根正二の作品に興味をもっていました。実家の襖に関根正二の「信仰の悲しみ」を模写し、気味の悪い絵を描くなと母親に叱られた話もあります。

 

 

詩、もう一つのライフワーク

14歳頃から、幸吉はよく詩をつくりました。
幸吉が詩をつくるようになったきっかけは、高間筆子(大正時代の夭折の画家・詩人)の画集だと言われています。
自然の雄大さや美しさ、街の何気ない風景、描くという事、自分の事…
絵を描くときと同じように、その時々の感情を素直に言葉に表しています。

高間筆子や関根正二、村山槐多の影響が強いのは、幸吉が病を抱えていた事と無関係ではないでしょう。
彼ら夭折の画家たちの生き方に共鳴した幸吉は、10代にして自分に残された時間を意識しながら生きていたように思われます。
事実、現存する幸吉15歳のスケッチブックからは、走り書きのように描いた自らの墓が見られます。

 

最後に、幸吉が17歳でつくった『パレット』という詩をご紹介します。

絵の描きあげの スケッチ箱の上に置かれたパレット
パレットは美しい むずむずする程だ
白が真中に 赤や朱や 一方の角から緑が ぐうと描かれている
パレットは良い 筆が色ついて投げられてるし ふとんが隅に山になってる。
小さい机に静物の布 黄色気た壁に今描いた自画像がかかってる。
一寸首に緑をつけた。
俺の心臓が息ついてると 彼奴(絵も)息ついてる。       (大正15年1月)

 

 

つづく…

2017.01.15