Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館
コラム
復古やまと絵派の絵師・冷泉為恭 愛蔵の仏画
学芸員:須藤 崇
幕末の復古やまと絵派の絵師・冷泉為恭(1823~1864)。京都の京狩野家に生まれながらも狩野派の絵師としての道には進まず、平安王朝文化への強い憧れを抱き、自ら冷泉を名乗って、当時の土佐派(宮廷絵師)や住吉派(幕府御用絵師)に失われていた王朝絵巻の華麗な世界を復興させたことで知られています。
このコラムでは、為恭の愛蔵品である《善導大師像》(山形県指定文化財)についてご紹介します。
山形県指定文化財 善導大師像 伝 比丘曇省賛 伝 李龍眠(李伯時)筆 鎌倉~室町時代(13~15世紀)
本図は、中国・唐時代の浄土教の大成者・善導(613~681)の肖像です。善導が合掌し念仏をすると、その念仏が阿弥陀の姿になって飛び出して人々を救ったという奇瑞説話に基づいて描かれています。画面上部には和歌や詩を書くために設けられた色紙形があり、中国・南宋時代の紹興31年(1161)比丘曇省の仏徳をたたえた賛があります。
箱書(表)「光明善導大師道影、宋李伯時画比丘曇省賛、大行満願海(花押)」
箱書には北宋時代の画家・李龍眠(李伯時、1049~1106)が描いたとありますが、描写などから北宋時代の作とは考えられず、また、京都・知恩院の善導大師像(鎌倉時代・13世紀、重要文化財)にも同じ賛文の書写があることから、多くの善導像と同じように舶来の南宋本をもとに日本で制作されたものと考えられています。善導の面貌は気品があり、体の線や衣紋線などは伸びやかで力強く、筆者が優れた技量の持ち主であったことがわかります。また、頭部の背後に描かれた円光は、善導が阿弥陀の化身であることを表すために描かれたものだと思われます。
箱書(裏)「文久三年癸亥夏五月為恭入道心蓮上人光阿所施贈于余願海也 叡岳前常楽院願海」
本図の伝来についてですが、為恭がいつどこで入手したのかはわかっていません。文久2年(1862)8月、幕府に通じているとして攘夷派の浪士に追われていた為恭は、紀州の粉河寺にいた仏道の師である願海(1823~1873)のもとに身を寄せ、剃髪して心蓮、光阿などと称し、そこでは多くの水墨画や仏画を描いています。攘夷派の探索が厳しくなったからでしょうか、文久3年(1863)5月、願海に本図を形見として贈ったことが願海自筆の箱書きによってわかります。つまり、紀州に逃れてくる時にはすでに本図を所持していたと思われ、命を狙われているなかでも手元に残していたということは、為恭にとってとても大切なものだったのではないでしょうか。紀州を離れた為恭は、元治元年(1864)5月5日、長州藩士の手によって命を落とすことになりました。
その後、願海の手を離れた本図は、本間家の菩提寺である浄福寺の住持・菊池秀言が入手し、大正13年(1924)に本間家へと伝わり、当館の所蔵となったのです。
この冷泉為恭の愛蔵品「善導大師像」は、現在開催中の「茶道具の名品展 第二部 和物と仏画・書跡」にて今月29日(火)まで公開しています。為恭と願海の親交を物語る作品を、ぜひご覧ください。
2021.06.22
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