Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館
コラム
郷土の画人・菅原白龍 ー日本的な南画の確立に努めた画家ー
学芸員:須藤 崇
菅原白龍(1833~1898/天保4年~明治31年)は、幕末から明治時代に活躍した南画家です。西置賜郡豊田村時庭(現在の山形県長井市)の白龍山梵林院の神職の家に生まれました。はじめ長沼月峰と渡部玄渓、のちに江戸の熊坂適山に南画(中国の山水画を描く画風の一つである南宗画を略した呼称で、画家の内面や精神性を重視する)を学びます。その後、関西方面を遊学し、安政3年(1856)に家督を継いでいます。また、洋画の川上冬崖をはじめ、南画の奥原晴湖や富岡鉄斎など、多くの画家や文人と交友する一方で、木戸孝允ら政治家とも親交を持っていました。
その白龍が活躍した幕末から明治時代にかけて、南画は知識人の教養のひとつとして愛好され、また時の権力者の嗜好もあり、大流行しました。しかし、明治政府の欧化政策によって日本の伝統美術が衰退し、新たな日本画の創造を目指していたフェノロサや岡倉天心らは、洋画や中国絵画の影響が強かった南画を否定しました。以後、南画は衰退への道を歩み始めますが、南画家たちの中には、南画の近代化を目指す動きを見せており、白龍もまたその一人でした。従来の中国風の景色や人物を描くのではなく、写生を基礎とした日本風の景色や人物を描いて、日本的な南画の創造に努めたのです。
開催中の「郷土の画人展」では、当館所蔵の白龍作品を2点展示しています。
《浅絳山水図》は、安政3年~明治3年(1856~70)までに描かれたものです。作品名の「浅絳山水」とは、代赭色(茶みのある橙色)の彩色を施した山水図のことで、落款にある「梵林」という号は、白龍が上記の制作年代に使用した号です。
この作品は、他の南画作品にも見られるように、人物は中国風の賢人で、景色も中国風の景色を柔らかい筆法で描かれています。
もう一点の《山水幽居図》は、日本風の紅葉彩る山水を描いた作品です。正確な年代は不明ですが、落款などから明治20年代頃の作品と思われます。
周囲の景色や川舟に乗った人物は中国風ではなく日本風に描かれており、白龍が南画に新風を吹き込もうとした革新的な画家であったことがわかる作品です。
白龍の作品が見られる「郷土の画人展」は2月15日(月)まで開催していますので、ぜひ見比べながらご覧いただければ幸いです。
2021.02.05
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