公益財団法人 本間美術館は、「公益」の精神を今に伝え、近世の古美術から現代美術、別荘「清遠閣」の緻密な木造建築の美、「鶴舞園」、さらには北前船の残した湊町酒田の歴史まで楽しめる芸術・自然・歴史の融合した別天地。

公益財団法人 本間美術館

Homma Museum of Art芸術・自然・歴史の融合/公益財団法人 本間美術館

コラム

公益財団法人 本間美術館 [山形県 酒田市] > コラム

江戸絵画史の流れ Part③

学芸員:須藤 崇

太平の世となった江戸時代は、多くの個性的な画家が登場し多彩な絵画が生み出された、まさに百花繚乱ともいうべき様相を呈した時代です。
開催中の開館70周年記念特別展「江戸絵画の魅力」では、当館が所蔵する江戸絵画の名品と郷土に伝わった優品の数々、全47点を展示しています。
このコラムでは、17世紀初頭から19世紀後半に至るまでの約260年間の江戸時代の絵画史の大きな流れを、展示作品とともに紹介します。
最終回となる第3回目は、【江戸時代後期-18世紀末から19世紀後半まで-】についてです。

 

江戸時代後期は、江戸の民間画壇が活性化して、文人画や洋風画などが独自の展開を果たしていきます。一方、関西では、個性的な文人画家や四条派、岸派、森派といった諸画派の画家が活躍し、江戸絵画の集大成ともいうべき創造された美の数々が輝きを放ちました。

■文人画(南画)
中山高陽によって文人画が江戸へ移植されると、関東に文人画が広まり、谷文晁(1763~1840)によって隆盛の基盤が築かれます。関西では、池大雅や与謝蕪村のあとを受けた、浦上玉堂(1745~1820)、岡田米山人(1744~1820)、田能村竹田(1777~1835)といった個性的な文人画家が活躍しました。

・田能村竹田《秋江泛舟図》 文政9年(1826) 酒田市指定文化財 ※個人蔵
田能村竹田は、詩的表現に富んだ独自の画風を確立した幕末文人画壇を代表する画家です。
本図は、文政9年(1826)に、現在の大分県大野郡犬飼町に宿泊した際に描いた大野川の実景です。画面の黄土色の淡彩の妙が文人画の特色を示します。

 

・高橋草坪《牡丹図》 天保2年(1831) 酒田市指定文化財 ※個人蔵
高橋草坪(1804?~1835)は、師・田能村竹田の画風をよく受け継いだ、夭折の文人画家です。
本図は、淡く透き通った色彩が美しく、ぼかしやにじみを効かせ、豊麗な牡丹を見事に表しています。牡丹は花の王様で、富貴の象徴として最も好まれた花です。

 

・岡田半江《米法山水図》 江戸時代後期 山形県指定文化財
大坂を中心に活躍した文人画家・岡田半江(1782~1846)。父は文人画家として著名な岡田米山人。繊細で清澄な画風、緻密な描写力は当時から高く評価されていました。
本図は、墨の横点で山を描き表す「米点」の技法と、縦長の画面いっぱいに峰々を上へ上へと積み上げる高遠法で描かれた山水画で、半江の確かな技量と特徴が伺われる晩年の秀作です。

 

■洋風画
西洋画に刺激されて興った洋風画は、独学で始めた亜欧堂田善(1748~1822)によって西洋画法の理論や技術がさらに深く突き詰められ、田善の影響を受けた安田雷洲(生没年不詳)は銅版画でよりリアルな風景画の創造に取り組み、肉筆画においても異彩を放ちました。


・安田雷洲《赤穂義士報讐図》 江戸時代後期 酒田市指定文化財
安田雷洲は、はじめ葛飾北斎の弟子として挿絵や肉筆美人画を手がけ、文政年間(1818~30)には銅版画の江戸名所図を連作し、安政年間(1854~60)には蘭学者としても知られていました。
本図は、赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入りを果たして、亡き主君の無念をはらしたという「忠臣蔵」の一場面を描いたものです。近年、本図が『新約聖書』第三巻「羊飼いの礼拝」の原画の構図を応用して描かれたことが明らかになりました。聖母マリアは大石内蔵助で、マリアに抱かれた幼子のキリストが吉良上野介の首にあたり、墨小屋はキリストが生まれたベツレへムの厩ということになります。安田雷洲の数少ない肉筆画としても評価が高い作品です。

 

■森派
森派は、森狙仙(1747~1821)を祖とする江戸時代後期に活躍した大坂画壇の一派です。肥後細川家の御用絵師をつとめ、猿や鹿など身近な動物の絵を得意としました。細かい毛の描写を重ねていって、立体感や質感を表現する描法に特徴があります。

    
・森狙仙《梅母子猿図・松瀧見猿図》 江戸時代後期
猿絵の名手として知られた画家・森狙仙。円山応挙の写実的画風に影響を受け、自己の画風を確立。甥の森徹山(1775~1841)が跡を継ぎ、森派を形成しました。
本図は、梅の木にしがみつく二匹の母子猿と、岩の上で瀧を見る猿が描かれた作品です。輪郭線を用いず、繊細でよどみのない毛の線で描かれた体毛や、体の柔らかさまでも的確にとらえています。

 

■四条派
呉春(1752~1811)を祖とする江戸時代中期から活躍した流派で、弟子の多くが京都の四条付近に住んでいたことから、その名で呼ばれています。呉春没後、異母弟の松村景文と、景文(1779~1843)と双璧を成した岡本豊彦(1773~1842)によって受け継がれ、明治時代以降も活躍しました。四条派は、円山派とともに「円山四条派」と総称されています。

   
・東東洋《青楓若松若鹿図》 江戸時代後期 ※ 長谷川コレクション(公財)山形美術館蔵
東東洋(1755~1839)は、仙台藩を代表する四条派の画家。文人画や南蘋派などを学び、円山応挙の画風にも影響を受けています。四条派の呉春と親交を重ね、柔らかい線描や抑揚を抑えた色調が特徴の独自の画風を確立しました。
本図は、真ん丸い黒々としたつぶらな目の雄鹿と雌鹿を描いたものです。「鹿描きの名手」でもある東洋の独特の持ち味が出た魅力的な作品といえます。

 

■岸派
岸駒(1749?~1838)を祖とする江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した流派。岸駒は、清の画家・沈南蘋や円山応挙の画風を取り入れて独自の画風を築きました。弟子には長子の岸岱(1782?~1865)をはじめ、横山崋山(1784~1837)、河村文鳳(1779~1821)などがいます。

・岸駒《猛虎図》 江戸時代後期 酒田市指定文化財
円山応挙と並び、虎描きの名手として知られる岸駒の虎図の代表作の一つ。波濤と老松に迫真的な虎の姿を描いた本図は、リアリティーが画面全体に押し出され、数ある岸駒の作品のなかでも大作といえるものです。
どこか愛嬌のある応挙の虎とは対照的に、岸駒は猛々しい虎を描いていますが、その虎は応挙以上のリアリティーを持っています。

 

全3回にわたって、17世紀初頭から19世紀後半に至るまでの江戸時代の絵画史の大きな流れを、展示作品を通して簡略に紹介させていただきました。しかし、展示作品に絞っての紹介でしたので、紹介できなかった優れた画家や流派なども数多くあります。また、今後再評価・再発見され、現在注目されている伊藤若冲のような画家も出てくるかもしれません。
このコラムが、多くの方に江戸時代の絵画や画家に興味を持っていただくきっかけとなれば幸いです。

2017.08.24